過去をどう解析するかで人生が変わる

「何がいけなかったんだろう。」

 

昔の私はこんな風に過ぎた過去の出来事を捉えていました。特に失敗したと思った時のことです。

 

「あの人があんな風に言って、私がこう言って、それでこうなって、、、ああいう言い方しなければ良かった。」

「あの人があんな風にしなきゃ良かったのに。言わなきゃ良かったのに。」

 

こんなことをよく言っていました。

 

ある事象があって、

問題が発生して、

問題の発生した原因を突き止めて、

次に活かす。

それが反省することで、良いことだと思っていました。

それ以外、後悔の気持ちのやり場に方法がありませんでした。

 

「次こそは失敗しないぞ。」

と心に決めて、同じような事象がまた来たら過去の経験を活かして問題なく乗り切る。

“失敗から学ぶ”というのも、同じパターンかもしれませんね。

 

しかし

「何がいけなかったんだろう。」という思いからは

「私の何がいけなかったんだろう。」とか

「あんなことをしたからいけなかったんだ。しなければ良かった。」「私ってどうしていつもこうなんだろう。」と自分を責めてしまったり

 

逆に

「あの人がこう言った、やったからうまくいかなかったんだ。」とか

「あの人は全然わかってくれなかった。」「あの人はああいう感じだから言っても仕方ないよね。」

と相手を責めてしまったり、、、

 

どちらも、自分なり相手なりを無意識に責めてしまっています。

 

自分の言葉行動は○だったけど、

相手の言葉行動は✕だった。

 

自分の言葉行動は✕だったけど、

相手の言葉行動は○だった。

 

突き詰めると、こんな解釈で過去を解析していました。

 

この過去の解析の仕方を私は繰り返していて、とても苦しかったです。

 

なぜなら、この解析だと、いつまでも問題解決しないからです。

 自分や相手をいくら責めても、次に具体的にどんなイメージを持ってどう挑戦していけばいいのか、過去から学ぶことはできなかったからです。

似たようなシチュエーションにくると、上手くいく場合もあれば上手くいかない場合もある。

 

ある時は、上手くいったと思っても、自分だけが満足して相手に不満を残してしまったり、やはり何かしらの後悔の念が残ってしまいました。

 

また、いつものパターンで人間関係を作ってしまい、可もなく不可もなくやり過ごしてしまったりしていました。

 

そうこうして、いくら知識や方法論で人間関係を本で読んだり、人に相談したりしても、これだ!という解決方法はありませんでした。

人それぞれ、人間関係について百人いれば百通りで、個人で捉え方や課題は全然違うし、一体何をお手本に人間関係を作っていけばいいのやら、お手上げ状態でした。

 

上手くいく時と上手くいかない時がありましたが、全く同じ状態状況は二度とこないので、失敗や後悔に対する防御策をいくら考えても答えは見つからず。

 

全く先が見えないから、人と会うのが億劫になって、人と関わることがストレスだったりしました。

 

 

実は、この私の過去の解析方法では、人間関係を築くのはおろか、未来に希望を抱けないし、経験から成長を感じることも、変化を感じることもできない生き方になっていたのです。

 

しかし、そもそも生き方を誰かが教えてくれたでしょうか。

私が生きる意味、価値を教えてくれた人はいたでしょうか。

理想の人に会って、その理想の人の真似をする。それによって価値ある生き方ができるでしょうか。

その理想の人は、自分と全く同じ環境で産まれ、育って、同じ考え感情を持ち合わせているでしょうか。

そうじゃないのに、その理想の人の生き方を真似することで、自分がこの体を持って産まれてきた意味、価値は感じられるのでしょうか。

 

残念ながら今の日本の教育は、この社会で生きる力を教えてはいても、生き方、生きる意味価値は教えていません。

 

しかも“この社会”が前提になっています。

この社会は変化しています。

学習指導要領によって規定された時点での日本社会は次の瞬間、変化しています。

 発行される頃には、さらに変化し続け、いつまでたっても追いつきません。

 

 誰も教えてくれないから、真似をするしかない。

でも真似だといくら頑張っても真似で終わる。

虚しさだけが残ります。

 

私が私である意味。

私じゃなきゃいけない意味・価値。

それに出会いたくないですか?

 

私は強烈に出会いたい!!

と思いました。

 自分や相手を責めるしかない人間関係に嫌気がさしました。

そんな関係性しか築けない自分に嫌気がさしました。

生きてるけど、意味がない。

生きてるけど、生きてない。

生きてるけど、地獄。

 

こんな繰り返しに、生を持って終止符を打ちたかったのです。